傾国の美女・楊貴妃 贅沢ばかりではよくない?

公開日:  最終更新日:2015/12/10

楊貴妃

楊貴妃
719年 生まれ(〜756年7月15日)
画像引用元:楊貴妃 – Wikipedia

美しすぎて、国を傾けてしまった!?

 一度は名前の聞いたことのある楊貴妃。彼女は、古代中国四代美人の一人で唐の9代目皇帝玄宗の妃となった人物です。傾国の美女として名前は知れ渡っています。美しすぎて、国を混乱に陥れてしまった理由とは・・・?

 唐の9代目皇帝玄宗の妃ですが、最初は玄宗の息子に嫁いできた楊貴妃。あまりの美しさに息子の嫁ではなく、自分の嫁にしたくなった玄宗は楊貴妃を自分の妃として迎え入れます。このとき、玄宗は62歳、楊貴妃は27歳と、なんと年の差35歳です。楊貴妃は楽器も自在にこなし、踊りや歌声も素晴らしく、玄宗が楊貴妃に完全に心を奪われてしまうほどの美しさと才能豊かな魅力を兼ね備えていました。

 玄宗は、常に楊貴妃をそばに置き、出かけるときも必ず楊貴妃を連れて行くほどでした。楊貴妃もまた、玄宗が他の侍女などと二人になろうとすると邪魔をするなど、玄宗の寵愛を独占していました。そのため、楊貴妃の一族である楊一家は次第に権力を持ち始めるようになります。そして、楊貴妃の人生が一変する出来事が起こるのでした。

安史の乱に巻き込まれた楊貴妃

 楊貴妃のおかげで高い官職に就いた楊一族。しかし、このことをよく思わない人々も、もちろんいました。従弟である楊国忠と、楊貴妃と姻戚関係を結んだ安禄山は対立関係にあり、後に安禄山は反乱を起こすことになります。このとき、唐では農民の貧富差が激しく、逃亡する農民も続出し、税を集めることに苦労していました。安禄山は地方の警備を任されていた役人で、唐に見切りをつけ反乱を起こしました。

 楊国忠に謀反の疑いをかけ、反乱を起こした安禄山。国忠を亡き者にした後も楊一族は狙われ、楊貴妃の姉も同様に亡くなりました。しかし、それでも反乱は収まらず、怒りの矛先は楊貴妃へと向かうのでした。

 楊貴妃を失いたくない玄宗は、楊貴妃は謀反に関係ないことを訴えますが、事態を収めることはできませんでした。

 玄宗は楊貴妃に命を絶つことを命じます。そして、756年7月15日に楊貴妃は亡き人となり、楊貴妃は人生に幕を閉じたとされています。

贅沢ばかりでなく、本当に必要なことを見極めるということ

 
 死ぬ直前はかなり太っていたそうで、贅沢にまみれ、肉体にはいろいろな香料をつけ、側に行くだけで香りが移ったともいわれています。楊貴妃や周りに集ってくる人々には、贅沢なものやお金が集まってしまいました。しかし、細かい気遣いの出来る楊貴妃に玄宗は溺れてしまったのでしょう。

 楊貴妃も権力や物に執着するだけではなく、違う視点からも世の中を見ていたら、もっと違う結果になっていたのではないでしょうか。自分にとっての優先順位や本当に必要なものを見極める目を身につけたいものですね。

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