文学少女界の THE TOP -紫式部ー ユネスコが選んだ世界の偉人の一人

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紫式部

紫式部
97?年 生まれ(定説がなく、970年代生まれと推測される)
画像引用元:紫式部文学賞 – Wikipedia

 ドラマや映画、漫画など、現代のメディアで触れることも多い源氏物語。そしてその作者・紫式部についてです。

式部の頭脳

覚えの良い式部は「男だったら」と父為時に残念がられた
 平安時代は女性が漢籍を読んだりすることは嫌がられました。しかし式部は莫大な量の書物を読みました。「源氏物語」に引用されている詩や歌・文献からみて漢籍、仏教書、歌、物語、歴史書など、じつに広範囲に読まれていることがわかります。父母から受け継いだ遺伝子と父の教育と自らの努力により蓄積したものは莫大でした。そして書かれた「源氏物語」は物語の原型ともいえるほど後世に影響を与えました。どの巻も人を惹き付けてやまない語りとなっています。全編の構図は非常に良く組み立てられ、人物も事件の発展も四代八十年の長期にわたりながら矛盾がなく、五百人の人たちが巧みに動かされています。
源氏物語はいつ書かれたのか
 これは諸説ありますが、夫宣孝が亡くなった1001年から道長の娘彰子中宮のところに出仕する1005年までの期間が最も執筆に心魂を傾けた時であるとされています。式部は道長に姫君たちのために書くように依頼され、出仕してからも、なお書き続けたなどいろいろな説があります。
青表紙本
 今残っている源氏物語はすべて書写したもので式部自筆のものは全く残っていません。そのため書き加えられたり、消失したりしています。今の54帖は藤原頼道(1074歿)の時代に定本として決められたものと考えられます。その後、鎌倉時代河内の守 源親行(1277歿)のころには21種類の本をもって校訂しなければならず、混乱を極めました。この校訂本が河内本で、一方、藤原定家が校訂した本を青表紙本と呼んでいます。
式部の遺伝子
 式部の曾祖父 中納言兼輔は「太子伝歴」を書き 和歌は勅撰集に4~50首収められ、三十六歌仙のひとりに加えられた延喜時代の有名な歌人で、式部が最も誇りとしていた人物だったようです。父為時も「後拾遺集」や「新古今集」に歌がおさめられています。為時は漢詩人としても学者としても有名で、その詩は「本朝麗藻」という本にでているほどです。母方の曾祖父文範も祖父の為信も歌人として有名でした。式部自身は源氏物語のほかに日記と家集を残し、また「後拾遺集」など12の勅撰集に計58首の歌を残しています。

 また血はつながっていませんが、「更級日記」「蜻蛉日記」「枕草子」など平安女房文学を書いた女流作家たちが親戚でした。特に「蜻蛉日記」は、式部の若いころにすでに流布していたようで影響を受けています。式部の周りにはすばらしい書物が積み上げられていたことと思われます。

シングルマザーとなり、出家せず幼児を抱え生きる決意

 夫宣孝との3年の結婚生活ののち未亡人となりました。当時は出家することが多かったようですが、式部は娘賢子(けんし・かたいこ)を産んでおり、幼児を抱え生きる決意をします。源氏物語ですでに評判となっていたようで、藤原道長にその娘彰子中宮の家庭教師として迎えられます。20代後半から30代前半に出仕し、それから7~8年間務めます。

宮仕え
 宮仕えにあがったものの 父為時の学者肌の地味で非社交的なところを受け継ぎ、また源氏物語の好評に嫉妬も買い、いじめられてしまいます。何か月か実家にひきこもっていましたが、道長の正室が末娘を産み、彰子中宮の主催で産養(うぶやしない)の盛儀があり、また出仕することになりました。女のくせに日本書紀まで読んでいると言われて「日本紀御局」(にほんぎのみつぼね)などあだなされることもあり、一の字すら書けないふりをしたこともあると日誌にかかれています。
天才清少納言のように派手な性格ではなかったようで、わざと何も知らないふりをするなどして、受け入れられ、心を許す友達も多く充実した女房生活を送ったようです。その後は源氏物語の作者として名誉と尊敬を一身に集めていたことがうかがわれます。
 
 女房の仕事は主人の食事の給仕、身だしなみや洗髪の介添え、訪客の取次、手紙や歌の代筆、お話し相手、また学力があれば古典漢籍の講義。いわゆる侍女と秘書、家庭教師まで兼ね、式部も彰子中宮に白楽天の「楽府」を講じています。女房の仕事は忙しく、片手間に物語を書くのは難しいと考えられ、宮仕えの前にほとんど源氏物語を書き上げていたのではないかと、式部の能力からすれば考えられます。

仏教的な無常観と人間に対する愛

 宮中の女房たちは、現代の性のモラルから考えれば大変ルーズだったようです。また中宮や女御の権力を自分のもののように振る舞う女房も多く、式部はそのような女房たちに批判的でした。

 式部が生まれたのは970年から977年ごろとされています。995年からは道長とその甥・伊周(これちか)の権力抗争が激化、清少納言の女主人である定子中宮の母の死、邸宅の焼亡、伊周・隆家の左遷などにより定子中宮は出家。997年には高麗の賊船の出没。998年には彗星の出現と大暴風雨、そして伝染病ほうそうの蔓延。999年には内裏の炎上、疫病の蔓延。 民衆は疲弊し都大路には病死者の死体がごろごろところがるという大変な時期でした。

 宮中から一歩出れば暗雲とした状勢であるにもかかわらず、権勢欲に取りつかれた道長に式部は批判的でした。親族であろうと不幸におとしいれて、道長は豪奢な生活をしていました。しかし彰子中宮のことは心から敬愛していました。道長への批判的な目を彰子中宮に持たせてしまうことになりました。式部は宮仕えを辞めることとなりました。

 このような時代に生き、母、姉、そして多くの人の死を見た式部は、独自の自然観、人生観を持ち、そして仏教的無常観に至りました。七、八年務めたのち宮仕えを辞し、そして45歳から50歳頃に生涯を閉じました。源氏物語を書くことを道長に支援してもらったにもかかわらず、多くの人の死の上にのうのうと生きる事はできず、批判的な立場をとらざるを得ませんでした。実に内省的で自分に厳しい性格であったようですが、自然の中の幽かな美しさを感じ取れる女性で、自然を愛し、美しいものや可愛い女性のしぐさに見惚れ、自分の内面に美しい世界を作り出していたのだと思います。多くの人々、また時代をじっと見つめた、そのころには珍しく批判的な目を持った女性でしたが、外に闘争心を向けるようなことはありませんでした。思慮深く理性的な態度を貫きました。

 自然や人生の真実に美をみいだし感動する。夫の悪口を書いた清少納言のことをこっぴどく批判する、しかし常に内省的であるといういろいろな面を持ち、人間的な幅を持った女性だったようです。源氏物語という壮大な芸術作品の中で、式部は歴史書と違い、弱い立場の人間を余すところなく叙情的に描ききっています。そして人間の表も裏も知り、それを合わせて愛したといえるででしょう。これだけの人間を描き切るには人間に対する興味や愛情があればこそと思われます。そして物語が大好きな文学少女界の永遠のTOPと言えるでしょう。

最後に新古今集に収められている百人一首でもおなじみの一首です。

めぐりあひて 見しやそれとも わかぬまに
  雲がくれにし 夜半の月かな  
紫式部
 陰暦10日ごろの月は、夜半にあわただしくかくれてしまう。友も、その月のように「月の入らないうちに。」などと、月と争うようにして牛車を急がせて帰ってしまう。
教学研究社ーー水田潤著ーーー

式部の叙情の世界です。まるで物語のなかの一場面のように余韻を残しています。


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