日本初の女性眼科医 右田 アサ Part2 ~アサが遺したもの~

公開日:  最終更新日:2015/06/22

右田アサ

右田 アサ
明治4年10月22日生まれ(〜明治31年8月5日)

眼科病院院長井上達也との出会い

 アサを精神的にささえていたものの一つにキリスト教の精神ががありました。済生学舎のもう一人の友達前田園子の影響で、何人にも差別することのないというキリスト教に心惹かれていたようでした。前田園子は後に日本女医会の初代会長に就任しています。吉岡弥生は二代目会長となっています。アサは竹子や園子と訪れたことのある済生学舎にも近いニコライ堂に足が向き、その隣にあるお茶の水の眼科病院の門を叩いたのでした。

 その眼科病院の院長井上達也は、東京帝大の助教授の職を去り眼科臨床の実力をさらに磨き人々に役立てるために自ら病院を造った人物でした。院長井上達也は白内障手術の権威でした。「無菌手術室」を造り手術数もさることながら入院日数を短縮するなど驚異的な実績を残し、自身は清貧を旨とし医療技術向上のためには大金を投じるというスケールの大きな人物でした。

 アサはこの病院で心無い男性医師から「眼科女医なんて聞いたことがないお手洗いの掃除あたりからはじめろ」と言われ、朝4時に起き、病院各所のお手洗いや医局の清掃を毎朝率先して行ったのでした。

アサが遺したもの

 女性であるがため苦労をするのですが、常に向上心を失いませんでした。区別の難しい診断を正確にし、手術器具の準備、消毒に手抜かりはなく、宿直の時も角膜縫合に器具が合わない時に機転を利かすなど、男性医師にも引けをとりませんでした。  

 そして井上医院長に認められ 院長の診察に付いたり、助手として院長の手術を見ることも許されたのでした。しかし院長は48歳の若さで亡くなってしまいました。院長がアサにドイツ留学をさせたいと語っていたことをアサは後に知るのでした。

 呆然とする日々が続きましたが、次の年入局した童顔に口髭の北条和学と恋に落ちます。アサは学校のトラホーム検診のデータなどまとめ眼科女医としてはじめての学会発表の準備などをし、ドイツ留学を夢見ていました。

 また眼科病院から出向となった静岡県復明館では、多くの臨床症例を経験し北条和楽の協力も得て白内障手術も成功させています。しかし田舎で眼科開業準備に入っていた和学からの結婚の申し込みに即答することができませんでした。何故ならやっとこれからだというきもちだったのでしょう。

最前線で働きたい、ドイツに留学したい、研究したい、そして援助してくれた益田の人々に恩返ししたいと考えていました。

 しかしアサの命は終わりに近づいていました。女医に偏見を持つ人々と戦いながら、さまざまな事に耐えながらもさらに高い目標に向かっていましたが志半ばで命を落としました。しかし眼科女医としての道を切り開いたと言えるでしょう。

 亡くなったときは乱れぬ立派な最期で その手には銅製のキリスト教のイコンが握られていたそうです。また両眼を研究に使うよう遺言しています。

 お墓は島根県右田家のお墓のある暁音寺に、そして和学が中心となり御茶ノ水眼科同窓会からアサの人徳もあり余剰がでるほど寄付が集まり大龍寺の井上達也医師のお墓の傍に碑を建てています。余剰金は日本医学図書館に寄付されました。

>> 日本初の女性眼科医 右田 アサ Part1 ~アサの親友と女性医師たち~

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