日本初の女性眼科医 右田 アサ Part1 ~アサの親友と女性医師たち~

公開日:  最終更新日:2015/06/15

右田アサ

右田 アサ
明治4年10月22日生まれ(〜明治31年8月5日)

日本初の女性眼科医

 明治4年10月22日、清流高津川が流れる島根県益田市に生まれました。アサは、利発で大変優秀な子供でした。

 明治26年医術開業試験に合格し御茶ノ水の眼科病院に勤務し、日本初の女性眼科医となっています。明治31年8月5日肋膜心包炎にて28歳の若さで亡くなりました。その当時の男性社会の中、高潔にそして向上心を持ってひたすらに生きました。そのアサの姿は人に感動を与えずにはいられません。

ではまず、どのようにして医師になったのでしょうか。

アサの親友と女性医師たち

 明治8年から医師になるには「医術開業試験」に合格しなければなりませんでした。帝国大学や公立医学専門学校卒業者は無試験でよかったのですが、公立の医学教育機関に女子は入学さえ許されませんでした。女子にも明治15年に開業免許試験の受験が許されたのでした。公許第1号の荻野吟子が明治16年に誕生しました。

 アサは明治21年に私立医科大学の前身となる済生学舎というところに入学しました。この済生学舎もはじめから女子生徒の入学を許可していたわけではありませんでした。後に産婦人科医となった高橋瑞子が済生学舎の校門に三日三晩立ち尽くし,女子に入学が許されたのでした。済生学舎卒業者の一人吉岡弥生は静岡県掛川市出身で、東京女子医科大学の設立者です。

島根県益田市や津和野の人々

 そのほかにも医師を目指した女性がいました。そのうちの一人済生学舎でアサの親友だった千阪竹子は、アサと同じ県の島根県津和野の出身でした。当時女性に多額の教育費を工面することは並大抵のことではありませんでした。島根県のそれぞれの地域の人々が、アサや竹子を医師にするため支援したのですが、後に進徳義塾など非常にレベルの高い私塾が出来るなど意識が高く、また天然痘を鎮めた米原恭庵医師などの影響もありました。

 しかし千阪竹子は夫や子供を持つ身であり、厳しい勉学や家事をこなしながらも後期試験前に結核で亡くなっています。アサは親友を失い、また生活費もなく食べることもままならないこともありましたが、勉学に励み見事試験に合格しました。

 はじめに勤務した外科病院では女医であるのに看護婦以上の仕事を与えられず誰もアサを医者として認めようとはしませんでした。アサは失意の中悩んだ末病院を退職します。

>> 日本初の女性眼科医 右田 アサ Part2 ~アサが遺したもの~

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