極限状態の元でも美意識を貫いたブルースの女王・淡谷のり子
淡谷のり子(あわや のりこ,本名:淡谷 のり)
1907年8月12日生まれ(〜1999年9月22日)
画像引用元:淡谷のり子 – Wikipedia
戦時中でも決して自分の美学を捨てなかった歌手
昭和の歌姫で、「ブルースの女王」として名高い淡谷のり子。特に戦時中の彼女の、美意識を貫くための覚悟は壮絶なものでした。華やかなもの・海外のものは一切禁止され、女性も地味なモンペをはきながら、今日明日の命もわからないような日々の戦時中。しかし淡谷のり子は、外国の音楽であるブルースを頑として歌い続けました。
当時、国から禁止されたことを行った場合、へたをすれば命がありません。それでも、自分が美しいと思った音楽を命掛けで歌い続け、人々に美意識を伝えた女性でした。
戦時中でも「女」を捨てない① ~防空壕にもメイクボックスを持って避難~
戦時中は淡谷のり子自身も、度々空襲に襲われ、避難生活を余儀なくされました。しかし彼女は、防空壕の中にも必ず、化粧品が一式入ったメイクボックスを持って逃げたと言います。「女性らしくすることなど二の次。今は命を守ることが先決」という時代においても、決して「女」を捨てることをしなかったのです。
ステージにはメイクが必須です。それがなくなったら、美しいステージではなくなってしまう。そのようなことは、プロの歌手として、そして女として決して許されないという徹底した美意識を、生死の狭間においても貫き通したのです。
戦時中でも「女」を捨てない② ~喉元に軍刀を突き付けられても、モンペをはかずにドレスを着た~
戦時中は、女性は全員モンペをはくことが義務付けられていました。華やかな服装などしようものならば、女性であっても容赦はされず、公衆の面前でリンチされ、命を落とす人までいたほどです。しかし淡谷のり子の美意識に対する覚悟は、揺るぎないものでした。
彼女の元にも「モンペをはいて歌え」という指令が出ていたそうですが、「今日明日とも知れない命の観客の前で、生活感丸出しの女が適当に歌を歌うことは罪である。」「いかなる極限状態においても、ステージを行う以上は、美しい音楽と美しい女の姿を観客に提供しなければならない」と、頑なにモンペをはくことを拒否しました。しびれを切らした軍部が、彼女の元に出向き、喉元に軍刀を突き付けて脅しましたが、それでもドレスを着て歌い続けたと言います。
これは、ただ「キレイでいたい」という欲から出た軽いオシャレ心くらいでは貫き通すことのできない人生哲学とも言えます。たとえ死ぬことになろうとも、絶対に女を捨てないという、美意識に対する壮絶な覚悟だったのです。