徳川幕府の最後を見守った天璋院ー篤姫ー

公開日:  最終更新日:2015/07/05

天璋院

篤姫(天璋院)
1836年2月5日生まれ(〜1883年11月20日)
画像引用元:天璋院 – Wikipedia

篤姫とは

  篤姫は大河ドラマに取り上げられ話題となりました。彼女は、薩摩の島津家の支族、島津忠剛の娘で、天保七年(1836)鹿児島の田舎で生まれました。敬子(すみこ)という名でした。

 トップレディーとなり 幕府最後をしっかりと見守った天璋院とは・・。

将軍家に嫁ぐ

  天璋院は、はじめは薩摩藩主・島津斉彬の養女となり、さらに右大臣近衛忠煕(ただひろ)の養女ということにし、名前も篤姫とかえ将軍家に入りました。養父斉彬は島津家内に深刻なお家騒動を抱えており幕府の力を必要としていました。また跡継ぎに一橋慶喜を押す一派にも天璋院は期待されていました。要するに政略結婚でした。
 
 結婚相手の十三代将軍家定は 篤姫の前に二人の夫人を迎えていますが 二人とも亡くなっています。その上、家定には子供を作る能力がなく病弱でした。斉彬でさえ篤姫のことを気の毒であると言っています。

 篤姫自身はこれをどうとらえていたかというと、期待されていることに応える気構えがあったのかもしれません。しかしお家騒動を抑えることも、一橋慶喜を次の跡継ぎにすることもできませんでした。その上やっと心を通わせるようになった夫・家定も僅か二年という結婚生活ののち亡くなってしまい、二十三歳で未亡人となってしまいました。

皇女和宮の出現

 跡継ぎは対立候補の家茂(いえもち)となり 幕府の勢いもすでに幕末ともなれば衰えていました。そして「公武合体論」で幕府の勢いを挽回しようと家茂と皇女和宮の結婚が決まりました。孝明天皇の異母妹である和宮としては 天皇家から武家に嫁ぐなど納得出来なかったかもしれません。

そして大奥のしきたりに従うなどはできませんでした。天璋院と皇女和宮の嫁姑の戦いは有名です。どちらもこの時代の犠牲者と言えるのですが。やさしい家茂に接し、また天璋院に将軍家に嫁ぐことの意味を説かれ、和宮も変わっていきました。

天璋院の人生観とは

 天璋院は幕府崩壊後に本領を発揮しました。江戸城明け渡しの時一切の調度品に手をつけず、自分の家具も一切持たず一橋家に移りました。二百六十人の大奥の女中の身の振り方の世話をし、天璋院自身、薩摩藩より経済的援助がなくなり困窮していましたが、跡継ぎに決まっていた家達(いえさと)の世話をし洋行も許しました。新しいものを受け入れる気概を持っていたようです。 家達の結婚も自ら近衛家に出向き決めました。

 自分のことばかり考えているより、案外、人のために生きたほうが頑張れるのかもしれません。婚家徳川家に尽くした一生はあっぱれと言えるでしょう。江戸城明け渡しの時には、実家の薩摩藩の軍隊が攻めてくるわけですが、薩摩に助けを求めることなく、毅然として身一つで江戸城を出ました。薩摩藩も長州藩もさぞかし江戸城の豪華さに驚いたことでしょう。天璋院は自分の欲にとらわれず 自分をこの時代の一部として何ができるかを考えられたのかもしれません。
 
 この時代に自分が何ができるかと考えるのは、ちょっと難しいですが、周りの人のためになにができるかなど 視点をいろいろ変えてみると、案外違う視界が開けるかもしれません。

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