日本で初めてのミスコンNo.1に輝いた女性 -末広ヒロ子
末広ヒロ子
1893年5月20日生まれ(〜1963年3月18日)
画像引用元:末広ヒロ子 – Wikipedia
日本で初めてのミスコン
明治40年9月に世界規模のミスコン「ミスワールドコンテスト」がシカゴで開催されることになりました。この世界規模のミスコン選抜のため、「時事新報」は写真によるミスコンを企画しました。このときの企画が日本初めてのミスコンです。
優勝者には現在の2,000~3,000万円相当のダイヤの指輪が景品があり、初めてのミスコンには約4ヶ月で7,000名相当の応募がありました。
そして日本初のミスコンに輝いたのが、末広ヒロ子(当時16歳)です。ヒロ子は、ミスコンに興味もなく、写真を公開することを嫌っていましたが、見事に日本一美しい女性に選ばれます。
ヒロ子のミスコンへの応募のきっかけは、義兄でした。義兄がヒロ子には秘密で「末広トメ子」という偽名を使って、美人コンテストへ申込みをしたのです。応募写真はもちろんヒロ子本人のため、学校の級友にはすぐにバレてしまい、ヒロ子は妬まれ学校でも噂になってしまいました。
1908年3月5日付の「時事新報」で、ヒロ子が日本第一位の美人であると本名と一緒に発表されました。これが日本で初めてのミスコンだと言われています。
ヒロ子の退学処分
ヒロ子はミスコン1位に輝きましたが、世間を騒がせたとして学校から退学処分が下ってしまいます。学校側が良縁を紹介するためといった説や、義兄が申し込んだことを知らなかったという説などがありますが、定かではありません。
このとき、責任を感じた「時事新報」も学校に掛け合ったそうですが、お互い一歩も譲らず結果として退学となりました。「時事新報」はのちに、「日本美人帖」を出版し、「末広トメ子」としてヒロ子の写真を掲載したそうです。
侯爵夫人へ
当時は結婚の平均年齢が低かったこともあり、在学中であっても美人である生徒には学長から良縁の紹介がりました。嫁選びから漏れてしまうと、「卒業面(そつぎょうづら)」といわれたそうです。
ヒロ子にも退学後に縁談のすすめがありました。この縁談の相手が陸軍少佐・野津鎮之助でした。鎮之助は陸軍大将・野津道貫の長男で、侯爵でもあり、貴族院議院になることも決まっていました。良縁にヒロ子の両親は大変喜び、ヒロ子は侯爵とのお見合いに萎縮していたそうです。
このお見合いは相思相愛となり、翌年には式を行うほど順調に事が進み、礼儀・作法・教養、そして美貌を兼ね備えていたヒロ子は良妻としてとても評判だったそうです。