エディット・ピアフ、愛を求め愛を歌った人生
エディット・ピアフ
1915年12月19日生まれ(〜1963年10月11日)
画像引用元:エディット・ピアフ – Wikipedia
「シャンソンの女王」エディット・ピアフ
ピアフという名前を聞いたことはあるでしょうか?その名前は知らなくても、ハスキーで少ししゃがれた歌声ならご存知かもしれません。シャンソンといえばピアフ。彼女はシャンソンの代名詞ともいえる存在で、フランスで最も愛された歌手のひとりです。
「バラ色の人生(ラ・ヴィ・アン・ローズ)」は1946年に大ヒットしたピアフの代表曲で、彼女が作詞をしています。この曲は多くの歌手によってカバーされ1998年グラミー栄誉賞を受賞しました。
パリの貧しい街角に生まれて
1915年彼女はパリのベルヴィルという貧しい街で生まれました。売春宿を営んでいた父方の祖母の元で育てられ、幼くして娼婦やその客と接したことは彼女の人生に大きな影響を与えます。1935 年パリ郊外ピガーレの街角で歌っていたピアフは、ナイトクラブのオーナー、ルプレーに見いだされクラブで歌うようになりました。「ピアフ」というのは「すずめ」を意味し身長142cmの小柄で華奢な彼女につけられた愛称です。翌年ルプレーが殺された時、ピアフは殺人容疑を問われますが、無罪となりました。
1940年代からパリで人気を得るようになった彼女は、多くの歌詞も執筆しました。第2次世界大戦中、ドイツ占領下のパリで「バラ色の人生」は大成功をおさめます。第2次世界大戦後は、欧米の各地で公演旅行を行い、人気を博しました。
恋多き人生
彼女は恋多き女性でした。俳優イブ・モンタンは1944年彼女によって見いだされ、一時は恋人同士でした。1949年最愛の恋人であったプロボクサーを飛行機事故でなくし、1951年自動車事故でケガを負った後、彼女はモルヒネ中毒に苦しむようになります。1952年歌手と結婚をしますが1956年に離婚、1962年に20歳も年下の俳優と2度目の結婚をし、翌1963年に47歳でなくなりますした。
決して美人とはいえず、神経質で酒とタバコに溺れながらも、彼女は多くの男性に愛されました。
自分に素直に生き愛を求めた彼女の歌声は、今も聞く人を魅了し心を強く揺さぶるのです。