桂昌院の八百屋娘から将軍の側室への道
桂昌院
1624年生まれ(〜1705年8月11日)
画像引用元:桂昌院 – wikimedia
三代将軍の徳川家光の側室へ
「玉の輿」の言葉は、桂昌院のお玉が由来しているという説もあるほど、彼女の生き様はシンデラストーリーといわれています。
お玉、のちの桂昌院は八百屋の娘として生まれ、活発な生活を送っていました。彼女は本名を光子というのですが、玉のように明るく輝く少女をお玉と呼んでいました。
そんなお玉に父の死という突然の不幸が訪れ、彼女の母は二人の娘を連れ奉公に出ました。奉公先の本荘太郎兵衛宗利の家で働いているうちにお玉の母は宗利の目にとまり、宗利の後妻となるのです。
このお玉の義父にあたる宗利は二条城家の家司であり、縁合ってお玉は家光の側室であるお梅の方の部屋子として仕えることとなります。その後、十三歳で江戸城大奥へと入り、十八歳のときにいきいきした姿のお玉が家光の目に止まり、寵愛を受けます。お玉は、亀松と一年後にのちの綱吉にあたる徳松を生みます。
身分制度の厳しかった当時に男の子を生むことで、桂昌院として歴史に名を残すこととなりました。
桂昌院の綱吉への過保護な愛と綱吉の母へ愛情
桂昌院の綱吉への過保護なまでの愛情は城内・城外でも評判になるほどでした。それは、綱吉の兄である亀松が三歳で夭逝し、桂昌院の愛が全て綱吉ひとりに注がれていたためです。しかし、この過保護さから綱吉は母に頼り、今で言うマザコンであったと言われています。
一六八〇年に綱吉は五代目将軍となります。しかし、綱吉の母・桂昌院への愛は止まりません。将軍になった綱吉は、将軍である自分の母が八百屋の娘であることが胸に引っかかっていました。もちろんかわらず母のことは好きなのですが、身分制度が厳しかったこともあり、母の出自を受け入れることができずに悩んでいました。
そんな綱吉の桂昌院への思いに気づいた柳沢吉保は朝廷に働きかけ、桂昌院に階級を与えるように仕向けました。その結果、桂昌院は従一位ととても名誉ある階級を得ることとなりました。